【第1回】
悪さする者は注意する、叱る。昔は当たり前だった。気骨のある大人
私はタクシーに乗って、運転手さんからいろんな話を聞くのが好きだ。現代風俗の赤裸々な生活が、小さい箱の中で展開するのだ。先日はこんな話が聞けた。
タクシーに乗り込んだとたん、運転手さんが「いやー、今降りたお客さん、頭に来ましたよ」と言うので、「どうしたんですか?」と聞くと「困ったもんですね。今おりた茶髪の若い夫婦ね。多分はたち前後だと思うんですが、父親が助手席に乗って、奥さんが3歳くらいの子どもと後ろの席に乗ったんです。その途端に子どもがタクシーカードを抜いてビリビリ破りはじめてボロボロと落としているので、『お客さん、お子さんに止めさせてください。』と頼んだんです。でも、母親は私の言葉を無視してそのまま子どもにさせているんですよ。助手席にいる父親も何も言わないんです。」
「『次のお客さんが乗るんです。困ります。お子さんに散らかせないようにしてください。』って言ったら、その奥さんが『あんたがあとで掃除すればいいんでしょ』。私は業を煮やして大声で怒鳴ったんです。『やめなさい!』。そしたら、その子が『ワーン』って泣き出したんです。それでようやく父親がだらしない声で『おまえ、やめさせれ』って言った途端に、母親は『あんた、この運転手、チョー頭にくるわ。降りよッ』と。『ああ、どうぞ。タクシー代はいりませんから』って言ってやったんです。あんなのが親になって、どうやって子どもをしつけていくんですかね」。
私は「運転手さん、遠慮することはないよ。はっきり言ってやった方がいいです。運転手さんの行為は正しいです。拍手しますよ。でも、その2人には何も分かっていないんです。子どもが子どもをつくってしまったというケースだよね。随分あっちこっちでそれに似たことを見ますね。子どもの教育は教育施設で何とか出来るけど、親の方はもうどうしようもないものね」。
社会人として、大人としての内容が出来ていないまま、肉体だけが発達してしまった若者たちが増えている。恋愛だけは1人前、いや2人前も3人前もやってのけ、子どもが出来る。自分たちの勝手でおろしてしまったり、捨ててしまう例は枚挙にいとまがない。赤ん坊が捨てられるニュースはいつでも載るようになり、珍しいことではなくなってしまった。
中身が赤ちゃんの大人には、まわりの皆がこの運転手さんのように、正しいことを示して導いていかなくてはならない。この運転手さんは、珍しく気骨のある大人だ。最近は気骨のある人物が少なくなってきた。昔の大人は間違ったことを見つけたら、いかなる時でいかなる場所でも大きな声で怒鳴りつけたものだ。特に昔の老人はよく怒鳴って人を注意したものだ。
そういえば、私の祖父は「気骨のある老人」の代表のような人物で、非常に怖い人だった。
祖父は酒や食料品の問屋「池上商店」を営んでいた。私が大人になってから、取引先の業者の偉い方や銀行の偉い方から揃って言われたのは「当時はね、豊平の池上商店の社長さん(私の祖父のこと)に『馬鹿者!』と怒鳴られないうちは一人前じゃないという時代だったんですよ」という言葉だった。自分の店の従業員を叱って育てるだけではなく、取引先までも厳しく叱って育てていたのだ。
祖父は「孟子」を好んで読んでいた。まだ私が幼い時から「自(みずか)ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖(いえど)も吾(わ)れ往(い)かん」という孟子の言葉を良く聞かせてくれた。子どもの私はきちんとした理解は出来ないものの「いいかい。自分が正しい時は、どんな困難があっても自分の意志を貫き通さなければいけないんだよ」と教えてくれた。
現在私は予備校・学習塾を営んでいるが、60歳を過ぎた今でも若者達を叱りつけている。
茶髪にしてくる生徒がいれば、「せっかく綺麗な黒髪で生まれてきたのに、なんでわざわざ色をつけるの!元に戻してきなさい!」。大きな声で見つけ次第すぐに注意する。高校生くらいになると背も180センチ、190センチを超える子も珍しくはない。普通の大人や普通の老人は注意するのを躊躇するだろうが、私には当たり前のことだ。
「池上先生も自分の塾でだから注意できるんですよ。外でそんな注意を体の大きな高校生の不良なんかに出来ないでしょ?逆ギレして何されるか分かったもんじゃないですからね」という人がいるが、とんでもない。私は外でも知らない子どもを注意する。
地下鉄の構内で、座り込んでたばこを吸っている悪そうな不良がいた。やはり体は大きく180センチはある。高校を卒業したフリーターのようだ。周りに数名の大人がいたが、だれも注意しない。私は少々離れたところにいたが、つかつかと近づき、その子の前に立って、「禁煙だよ」と一声言うと、しばし間があってその子は火のついたままのタバコを床に捨てた。私は靴で「バン!」とタバコを踏んで火を消し、「ちゃんと捨てておくんだよ」というと、その子は小さくうなずいた。
注意する気迫があれば、相手はいうことを聞くものである。
別の日、昔からの友人と2人で札幌から車で50分ほど離れた温泉に行った。露天風呂の雪景色がとても綺麗な所だった。私は露天風呂の一番奥に場所をとり、絶景を楽しみながらお湯につかった。友人とは久々の再会で、お湯につかりながら積もる話をゆっくり静かに楽しんでいた。
10名ほどの若者たちがわらわらと入ってきた。20代の若者で、ある者は茶髪、ある者は金髪、ある者は左手に刺青、ある者は胸に刺青、当然全員ありとあらゆる所にピアスをしていた。ある者はサングラスをかけて露天風呂に入ってきた。
大声で叫ぶは、お湯の中に飛沫を上げながら潜るは、タオルを振り回すは、まるで幼稚園児が初めてプールに行った時のようである。大声で叫んでいる彼らの会話は、聞きたくなくても私の耳に入ってくる。どうやら、会話の中身からすると彼らはホストクラブの店員らしい。やがて、若者たちはビールを取り出して飲み始め、ついには温泉につかったままタバコの火までつけた。近くにいる他の客は、やはり誰も注意しない。ずいぶんと距離があったが、見かねた私は「禁煙だよ」とゆっくりした声で注意した。
露天風呂の中でタバコを吸っていた若者は、私を見たまま固まっている。声楽で鍛えた私の声が聞こえないわけがない。徒党を組んでる自分たちが注意されるなど予想もしていないので、びっくりしたのだろう。私は同じ声の大きさで「禁煙だよ」ともう一度注意した。
ようやく若者はわずかに頭を下げて、空き缶にタバコを入れて火を消した。
私は友人とお湯につかったまま、会話の続きを始めた。雪がチラつきだしたので、さらに1時間ほど雪景色を楽しみながらお湯につかっていた。いつのまにかホスト集団は消えていた。
帰りの車で友人は「池上さん、すごいね。びっくりしたよ」と言った。私は「ああ。まあ、当たり前です」。
本当に当たり前の話なのだ。悪さをする者がいたら、注意する、叱る。これは当たり前のことである。いつのころから日本は当たり前が当たり前でなくなったのだろう。気骨のある大人、気骨のある老人が極端に少なくなったのだろう。
これからしばらく、皆さんに私の文章を読んでいただく機会ができた。気骨のある大人、気骨のある老人になりましょう、という話を続けたいと思う。
「気骨のある大人、気骨のある老人になって、何かいいことがあるんですか」という質問には、私はこう答えようと思う。「気骨のある大人、気骨のある老人のいる家庭では子どもがまっすぐに育ちますよ」と。
池上学院には、さまざまな子どもの悩みを抱えた父母が、助けを求めて毎日のようにやってくる。そして、子どもの悩みを抱える家庭に共通するのは「お父さんがグニャグニャだ」ということだ。お父さんが弱々しく、きちんと子どもを叱ることが出来ない家庭は、子どもが必ず何かの問題を持つ。子どもが父親を馬鹿にする家庭、子どもが父親をなめている家庭は、子どもがゆがんでしまうのだ。
子どもが最初から父親を馬鹿にしたり、なめてかかることはありえない。母親が父親を大事にしないから、子どもは父親を馬鹿にするようになるのだ。一番最悪なのは、母親が子どもの前で父親の悪口を言うこと。これをすると確実に、子どもは父親を馬鹿にするようになる。
だから、決して母親は子どもの前で父親をけなすようなこと、父親の悪口や欠点を言ってはいけない。子どもの前で父親と母親が言い争いをするのもいけない。父親を悪く言うつもりがなくとも、子どもには議論の過程で、母親が父親を責めているように受けとってしまうかもしれないからだ。父親と母親が議論をするときは、子どものいない時しなくてはいけない。
父親の威厳がなければ、たまに子どもを注意しても、子どもはいうことを聞きはしない。叱る前提には父親の威厳が必要なのだ
世のお父さん。子どもをきちんと叱りましょう。きちんと注意しましょう。そして、その何倍も子どもを誉めてあげましょう。
叱り方というのにもコツがあるのだ。叱り上手の父親になりましょう。叱り上手こそ「気骨のある大人」なのである。
【札幌タイムス 2003年4月24日(木) (23日発行) から、許可を得て転載】





