【第10回】
粋な教育法。余計な物は極力除き、すっきりあか抜けて
「素朴でいいなー。これが本来のYOSAKOIソーラン祭りだよ」。あるチームの踊りを見て、私は妻に話し掛けた。そのチームは紺の法被を着ているだけで、ごてごてした装飾は身につけていない。曲も太鼓と笛が中心の和風だ。余計な電子音をほとんど使っていない。最近では珍しい素朴で粋(いき)なチームだった。
ここ数年、YOSAKOIソーラン祭りを見ていて感じるのは、どんどん華美になっていること。服だけで1人最低2万円はかけるそうだ。チームによっては5 万円以上かけるチームもあるらしい。スポンサーがつかないとチーム運営は難しいという。「企業の支援がないと成り立たない踊りなんて、変ではないか」というのが私の疑問だ。
金をかければかけるほど、祭り本来の素晴らしさが消えていくような気がする。夜の会場での踊りは照明がぎらぎら、ちかちかしている。あまりにもいろんな色の照明を変えるので、逆に踊りが見えづらくなっている。これでは本末転倒だ。照明を明るくしたり、暗くしたり、変化をつけて客を楽しませようとするが、時々全く踊りが見えなくなる時がある。一体何のための照明なのだろうか。
テレビを見ていて感じたのが、ズームアップを多用したり、カメラの位置をやたらと切り替えること。ズームアップで踊り子の顔だけ写しても意味がない。我々は踊りを見たいのであって、顔のアップは踊りが終わった後の取材時にとればよい。カメラの位置をやたらと切り替えると、踊りがどう流れているのか、まるで分からなくなる。あれだけ激しく踊っているのだから、カメラを切り替えて、動きをわざわざ演出する必要は全くない。これこそまさに野暮で不粋と言えよう。
日本の文化で大切にされてきた概念に「粋」がある。辞書で意味を調べると、「洗練されていて、しゃれた色気を持っていること」とか「気性・態度・身なりがあか抜けしていて、自然な色気の感じられること」とある。洗練されているとか、あか抜けているとは、「余計な物を除いている」ということ。自然な色気とは、「余計な物を除くと、自然な色気がでてくる」ということだ。この余計な物を除いた状態が一番「しゃれ」ているのだ。最近のYOSAKOIソーラン祭りは、余計な物がつき過ぎている観がある。少々野暮になりつつあるのではないだろうか。祭りとは本来、粋であるべきものだ。YOSAKOIソーラン祭りには、ぜひとも本来の粋な味わい、素朴な味わいを取り戻してほしい。物事は金をかけ過ぎたり、余計なことをし過ぎると野暮になり、どんどん衰退していくものなのだ。
これは子どもの教育でも同じこと。子どもに物をあげ過ぎるとろくなことにならない。小さい頃からおじいちゃんやおばあちゃんから、ふんだんに与えられた子どもを何名か知っている。どの子も物にあふれてしまっているので、物を大事にしないし、物をもらっても感謝しなくなる。もらったばかりの玩具をぽいぽい投げるし、平気で足で踏んでいる。壊れたらまたすぐ新しい玩具がもらえるから、物を大事にしなくなっても無理がない。そんな環境にしている親たちが駄目なのだ。
浜尾実という方が書いた「女の子の躾(しつ)け方」(光文社)という素晴らしい本がある。浩宮様、礼宮様の養育係をされた方だ。私も妻もこの本を繰り返し読んでおり、表紙はぼろぼろになっている。この本の中に「子どもに対してプレゼントは意味のあるとき以外はしてはいけない」という趣旨の記述がある。少々引用させていただこう。
「世の父親、母親が子どもに物を与えるとき、ただ買い与えるだけの意味のないプレゼントが多いようです。このごろの父親は、仕事やつきあいで子どもとゆっくり過ごす時間が少ないので、子どもの愛情をつなぎとめるために、もの分かりのいい親として、プレゼントを買って帰るということでしょう。けれども、よく考えてみれば、愛情は品物やお金で買えるはずがないのです。意味のないプレゼントは、かえって子どもにばかにされるばかりではなく、物のありがたさをそこねる効果以外にないと私は思うのです。子どもに与えるプレゼントは、意味のあるとき以外はすべきではないのです」
浜尾氏のこの文章は、物事の真理を端的に表現している。誕生日や祝い事の際のプレゼントは、喜びや感謝の気持ちを表すことができる有効な手段だが、過剰になっては害にしかならないと言うことだ。浜尾氏はさらに「子どもに欲しい物があっても1週間我慢させましょう」と述べられている。また少々引用させていただきたい。
「衝動的に買いもとめた物は、ひと月もたたずにその価値を失ってしまうものです。(略)何か欲しい物を思いつくと、手帳をひらいて1週間先のところにその品物の名まえを書きます。そして、1週間たって、なおもそれが欲しいようだったら、はじめて買うようにしています。(略)1週間で欲求が消えてしまうような物は、本当に必要な物ではないからです」
実に合理的で無駄のない粋な手法ではないか。浜尾氏は自身のお子さんにもこの手法を取り入れたそうだ。余計な物のない環境こそが、子どもの成長をすくすくと育ててくれる。しかし、最近は少子化の影響で、子どもにやたらと金をかける家庭が増えているようだ。
池上学院で学びたいという子どもが、父母と一緒にやって来た。かなり裕福な家庭で、お父さんは社会的地位の高い仕事をしていた。高校生の女の子だが、ほとんど学校に行かず、毎日遊び歩いているそうだ。かわいらしい顔だが髪は金髪に染めていて、化粧もしており、かなり派手な感じである。
「一体毎日どんな生活パターンですか」と私は聞いた。
「昼頃起きて、冷蔵庫の中にある物を食べて、夕方くらいから友だちに会いに行って遊ぶのが普通かな。ゲームセンターに行ったり、買い物に行ったり、ご飯食べに行ったり、カラオケしたり、夜遅く帰ってきて、テレビを見て、ゲームをして、朝近くに寝る」
「毎日のお金はどうしてるの」
「お小遣いをもらってる。欲しいときにお母さんに言えばくれるから」
「いくらでもくれるの」
「うん。いくらでもくれるよ。」
「その金髪もお小遣いで染めたの」
「うん。お母さんに髪の毛染めたいからお小遣いちょうだいって言ってね。いろんな色に染めるの流行ってるよ。爪もいろんなきれいな色つけるんだよ」
「昼頃に起きて食べるのが最初の食事なんだね。その時はお母さんと一緒に食べるの」
「うううん。違うよ。お母さんは出掛けていていないよ。冷蔵庫にお母さんが買ってきた物がいろいろ入ってるからそれを食べるの。デパートとかスーパーで買って来るんだよ。それがなければカップ麺を食べるの」
「じゃあ、お父さんやお母さんと一緒に食事をとるのはいつ」
「一緒でご飯食べることないなー。1人か外で友達と食べるかどっちか」
これだけ聞いて、その日は帰ってもらい、親御さんから電話をしてもらうようお願いした。夜にお母さんから電話がかかってきた。
「お母さん。彼女をまず朝起こしてあげてください」
「でも、起きないんです。無理に起こすのはかわいそうで」
「朝起きなければ、どうやっても学校には行けませんよ。それにお母さんは昼間、外にいるのはお仕事ですか」
「いいえ。カルチャーセンターに行って、エアロビックスとかイタリア語なんかを習ってるんです」
私はあきれてしまった。深呼吸をして、ゆっくりと話を続けた。「いいですか、お母さん。娘さんに必要なのはあなたなんですよ。お母さんがお子さんにきちんと声をかけて起こしてあげて、温かい食事を作って、食べさせてあげてください。娘さんがいい子になって、学校にきちんと行くようになるのは、それが一番の薬なんです」
「はい…分かりました…」
しばらく話を続けた結果、そのお母さんは毎朝食事を作り、娘さんを起こすと約束してくれた。
1年後には、その娘さんは髪も黒くし、毎日学校に通うようになった。勉強の成績はそんなに良くはないが、徐々に基礎は理解できるようになった。ともかく、学校自体がどんどん好きになったそうだ。それが何よりだと思う。
この娘さんが一時道を外れてしまったのは、両親が家にいず、娘さんと会話する時間も一緒にいる時間すらほとんどなく、そのくせお金だけはふんだんに与えた結果である。本当に大切なのは親子が一緒に過ごす時間なのだ。
私は落語が好きで、よく聞きに行く。落語家は扇子と手ぬぐいだけで、森羅万象の全てを表現する。扇子は時にきせるになり、箸になり、刀になり、銃になる。手ぬぐいは時に財布になり、丼になり、本になり、兜(かぶと)になる。その気になれば、落語は扇子と手ぬぐいと手振り身振りだけで、馬車から船から宇宙ロケットから、果てはタイムマシーンまで表現できるのだ。
もしも、落語家がいちいち小道具や大道具、背景などを使ったとしたら、どうしようもない野暮の極みになってしまう。余計な小道具など一切使用しないという限定条件のもとで、落語という文化はあれほどの表現力を持ちえたのだ。一流の落語家はわずかの口の動きだけで、空豆と枝豆を演じ分けるという。他の芸術ではありえないほどの表現力だ。もしも、華美な小道具などを使いだしたら、落語はたちまち堕落してしまうだろう。
子どもに対する教育も、余計なものは極力取り除き、すっきりと粋でいきたいものだ。
【札幌タイムス 2003年6月26日(木) (25日発行) から、許可を得て転載】





