社会に貢献する素晴らしい人間作りに協力します。|池上公介の教育論|2003年度札幌タイムス掲載(全記事掲載中)

【第16回】
状況、場所、役割に応じた言葉遣いがある。日本語の乱れ

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日本語の乱れは、いつの時代も言われ続けてきた。現代も同じで、それが増々エスカレートして来ているように思われる。若者たちがその最前線にいつもいる。聞いていて、これは一時的な流行で、時がたてば消えてしまうだろうと聞き流せるものもあるが、おいおいそれはないだろうと心配になるものもある。

このところ、若者ではなく、ちゃんとした大人がひどい日本語の使い方をするのに驚くことがしばしばある。敬語がめちゃくちゃな大人が増えてきた。例えば、母親に電話をする。「ご主人、いらっしゃいますか」と、私が尋ねると「いらっしゃいません」と、答える場合が時々ある。

どうなっているんだろう。自分の夫のことを他人に言うのに「いらっしゃいません」と平気で答える。中には「息子さん、いらっしゃいますか」に対して「息子さん、いらっしゃいません」と答えた母親もいた。私は一瞬、外国人かと思ったことがある。丁寧に話しているつもりなのか、無知なのか、理解に苦しむ。

一番聞くに耐えないのは、業界用語を普通の時に使うことだ。食事に行ったりする時、従業員が使うべき言葉をお客が使うことだ。例えば「おてもと」「むらさき」「あがり」「くろもじ」とか色々あるが、これは従業員が使う言葉であって、お客が使う言葉ではない。それをどう勘違いしているのか、知ったかぶりをしているのか、さも慣れているかのように「おしょうゆください」と言うべきなのに、お客が「むらさき」などと言っている場合がすごく多い。「お前はここの従業員か」と、言ってやりたくなる。

寿司屋でよく聞く言葉の「おあいそ」。元々は店側がお客さんの勘定の際に「3番さん勘定!」と言うと、早く帰れみたいな失礼な表現になるのを控えて「3番さん、おあいそ!」と「何も出来ませんが最後まで愛想よくさせてもらいますね」と言ったような意味で使い出したようだ。また「愛想尽かしをする」とは、歌舞伎で縁を切るという意味。店の人が、客に勘定書きを出す時に「愛想尽かしなことですが」とへりくだって言ったことからである。後に「お」をつけて、「尽かしをする」を省略した言い方になり、「おあいそ」となったという話もある。いずれにしても、店側がお客に対してへりくだって言う言葉である。ゆめゆめお客が使う言葉ではないのだ。

醤油(しょうゆ)のことを店側では「むらさき」と呼ぶことがあるが、その語源は江戸時代にある。その頃、醤油はとても高価なものであったため、高貴な色である「紫色」の染料の紫草から、この異名が生まれたと言われている。

江戸時代の醤油は、米の3倍、酒と同格、塩の8倍が相場であったそうだ。調味料の王座であり、その色艶、値段の点から、高貴な紫色にあやかり「むらさき」の異名を持つようになった。という説の一方で「むらさきは山の名前が由来になった」と言うのもある。昔、土浦のむらさき山で作っていた醤油が大変評判がよく「醤油といえばむらさき山に限るなあ」ということで「むらさき」になったとか。

つまようじは「クロモジ」と店側が言う。これは黒木のようじの意味である。クロモジの木は別名ホヨウジと呼ばれて、樹皮に精油やアルコール類を含み、芳香や殺菌力がある。中国ではハコヤナギを用いて、穂楊枝を作ったので楊枝の名が起った。日本ではクロモジで穂楊枝を作ったが、その際、柄の部分を皮付きのままとしたので、黒木の楊枝のことを黒楊枝と称した。穂楊枝は、先の方を穂のように砕いて作るもので、今の歯ブラシのようなものである。

後に歯の間にはさまったものを取り除くための瓜楊枝、つまり小楊枝もクロモジで作られるようになった。このように黒楊枝は歯を掃除するためのものであるが、昔の高貴な女性はずばりその名を口にすることを嫌い、文字詞(もじことば)をつけたとされる。黒楊枝の「くろ」に「もじ」を付けて「くろもじ」と称したことから、黒楊枝材料の木の名になったと言う説が有力のようだ。

このように、お茶のことを「あがり」、はしのことを「おてもと」など、店側はお客に対してや従業員間では、直接的な言葉を使わず、へり下って特別な言葉を使い出したのだ。それを高級寿司店に行って、いかにも自分は頻繁にこの店に来て、慣れているふりをして「おい、おてもと足りないよ」なんて言っている客がいる。笑ってしまうが、一緒に行っている客が分かっていなくて、高級店に行ったら「はし」などと言わず「おてもと」と言わなければならないのかと勘違いして使い出すから、無知とは怖いのだ。先日は、怖いを通り越して吹き出してしまった。お客がレストランで「すみません、むらさきください」と言うと、アルバイトの男の子が「醤油ですね」と返している。あべこべだ。

各業界でも、客に気遣いして、従業員同士の特別な単語を使っている。デパートなどもその店独自の単語を使っている。お客のいる前で「ちょっと、トイレに行って来るわね」とか「食事休憩取ります」などとは絶対に言わない。あるデパートでは、食事の事を「キザエモン」と言っている。省略して「キザ」と言っているようだ。「何々さん、どこ」「今、キザです」という具合だ。

トイレを「遠方」と言っている。昔、便所は遠い所にあったからだろうか。あるデパートでは食事を「まもるめ」そしてトイレを「たつみ」と言っている。多分、昔そのデパートはたつみの方角に便所があったのだろう。またあるデパートでは、トイレを「マイナス」と言っている。これは分かりやすい。出すのは「マイナス」入れるのは「プラス」なのだろう。

とてもおもしろいと思ったのは、万引きのことを一般的な人の名前にしているところがある。例えば「佐藤さん」と言っているのだ。確かに、混雑している特売場で、店員が万引きを発見したとする。警備員に「万引きが入っています」なんて言ったら、その場は大騒ぎになる。それを店員が警備員に対して、「そこに佐藤さんがいます」と言っても客は何も感じない。そして万引きを警備室に連れて行く時も「佐藤さん、こちらへどうぞ」なんて言ってその場から連れて行っても、客は気が付かないで何も分からないままだ。そして何事もなかったように特売場は安い物を探す人々でいつもの混雑の中にある。でも万引きのことを一般的な人の名前にしたのは、なかなか素晴らしいと感心するが、その名前はどうして決めたのだろう。もしかしたら、最初に万引きした人の名前なのかなどと思ってしまう。

きっと色々な業界で、おもしろい業界用語があることだろう。しかし、それを関係のない人が使うとおかしくなってしまうのだ。考えてみてほしい。例えば、トイレの事を従業員用語で「マイナス」と使っているデパートに行って、お客が案内嬢にトイレがどこかを聞く時に「マイナスはどこですか」なんて聞いたら、案内嬢は驚いて飛び上がってしまうだろう。そして「お客様は昔、こちらで働いていらしたんですか」なんて聞くかも知れない。

寿司屋や食事処に行って、お客が「むらさきください」とか「おあいそして」などと言うのは、これと同じである。私はいつもそんな時、教えてあげようかなという誘惑を止めるのに本当に困るのだ。おそらく店側も困っているだろうが、お客に対しては言えないのだろう。

状況、場所、役割に応じた言葉遣いというものがあるのだ。日々の生活で親から子へ、子から孫へと伝えなければならない。これが常識というものなのだ。

【札幌タイムス2003年8月7日(木)(6日発行)から、許可を得て転載】

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