社会に貢献する素晴らしい人間作りに協力します。|池上公介の教育論|2003年度札幌タイムス掲載(全記事掲載中)

【第18回】
英霊たちの思いを忘れずに、伝えていこう。終戦記念日

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今年も8月15日がやってきて、そして、去った。58回目の終戦記念日だ。私はここ数年、この日を迎えるたびにやりきれなく、辛く、そして、とても重い気持ちになってしまう。あの戦争で幾多の尊い命が陸で、海で、空で散っていったことか。英霊たちの心を思う時、胸が締めつけられる。辛い私の思いは、このところ年々強くなっていく。

彼らはどんな思いで己の命を賭けたのか。日本を思い、父母のために、妻のために、子どものために、兄弟姉妹を思い、恋人のために、全ての愛する者のために、命を捧げたはずだ。兵士の1人ひとりにそれぞれの家族があり、その家族のために、そして、彼らが暮らす愛する祖国「日本」という国を守るために、また、日本の未来のために、死んでいったはずだ。美しい日本を残すために散っていったはずだ。

それがどうだろう。昨今の日本の姿に戦後という言葉が、何か違和感を与えるほど時代は変わり、どこにも戦争の影は見られない。全くと言っていいほど、人々の心から戦争の記憶は欠落してしまったかのようだ。先日もテレビのインタビューで、原宿か渋谷の街にたむろする若者たちにマイクが向けられた。

「えっ、日本って戦争したの?アメリカと戦争したって。うっそー!?」と答えていた。

独立とは名ばかりで、実は根っこのところではアメリカの従属国だ。根幹部分をアメリカに握られて、アメリカのための戦後教育によって、日本人はいいように操られてきた。すっかり「日本の心」「日本の精神」は抜き取られ、忘れ去られてしまったようだ。アメリカの占領政策、洗脳教育は大成功だと言っても過言ではないだろう。アメリカの傘の元で、ぬくぬくと表面上の経済復興だけを追求してきた。そのつけははかりしれないほど大きい。

日本の心がすっぽり抜けてしまい、ただ物質的な豊かさの中につかって平和ボケしてしまった今の日本人の現状は、どうにもならないところまできている。政治も、企業も、教育も倫理観の欠如した者たちが溢れている。その根本である家庭もその多くが崩壊しつつあり、すさんだ、乱れた若者たちが己の欲望のみを追求している。

見るに見かねて心ある外国人たちが「おい、どうした日本」と、声を掛けるようになってきた。こんな恥ずかしいことがあるだろうか。

まさか、こんな日本になるために、英霊たちは命を散らせたのか。それを思う時、やり場のない怒りと情けなさで、私の握り締めた拳は震えが止まらない。

戦争時の昭和15年、私がわずか9カ月で、父は出征した。姉は2歳と5歳。まだ28歳だった若き母を残し、父はサイパン島玉砕で戦死した。日本からはるか南方の島、激戦地サイパン島のアスリート飛行場で最初の攻撃をかけたということを、生き残った兵士から私は聞いた。

日本が復興して、ようやく日本人も海外旅行ができるようになった時、私は何が何でもサイパン島に眠る父に会うために、と日本をたった。現地のガイドを雇い、雑草が私の背丈以上も伸びるジャングルの中で、置き去りにされたままのアスリート飛行場を見つけた。

この飛行場のどこで父は死んだのか。

「お父さん、あなたの息子が会いに来ました。お父さん、どこですか」

私は心の中で叫んだ。溢れる涙をぬぐいながら、飛行場のあちこちに父を探した。突然、私は号泣した。その時、私は父親を求める幼子に戻っていた。

父はどんな思いでこの地で散っていったのだろう。私は当時の父と同じく3人の幼子を持ち、父の死んだ年齢と同じになっていた。私には父の心情が痛いほど伝わってきた。私の中には幼子である自分と、すでに父親になっている自分とが合体し、大声をあげて泣きに泣いた。

母は年老いた祖父母と幼子3人を抱え、戦後を女手1人で生き抜いた。28歳で未亡人となり、男たちに混ざってビジネスの世界を歩んだ。全ての思いを胸の奥底にしまい込み、じっと耐えて生きた母の日々を思うと、私はたまらなくなる。祖父母は年齢を捨て、われわれ孫たちに「片親だ」という思いをさせないため、親代わりとして戦後を生きてくれた。振り返って考えると、感謝の気持ちでいっぱいになる。

記憶をたどっていくと、あれはきっと終戦の日、昭和20年8月15日だったのではないだろうか。なぜか私には、今でもまるで昨日のことのように、鮮明にあの日のことがよみがえってくる。

あの日は真夏の、とても日差しが強い日だった。午後の日の光が我が家の仏間に縁側から燦燦(さんさん)と差し込み、日の光を浴びた畳の明るさとは対照的に、仏壇の前に座っていた母は暗く、顔を両手で覆い、声を押し殺してずっと泣いていた。肩が上下に小刻みに震えていた。5歳だった私は、なんのことか分からず、泣いている母の横に座って、悲しい気持ちで母を見ていた。外はシーンと静まりかえり、庭の草花が日に照らされてきらきらと輝いていた。

「どうしてお母さんはこんなに泣いているのだろう。何がそんなに悲しいんだろう」

母が泣いている姿を、私は後にも先にもこのときしか見たことがない。あれはもしかすると、ほんのわずかな短い時間だったのかもしれない。しかし、幼い私の記憶では、母は1日中仏壇の前で泣いていたような気がする。それほど私の脳裏に強烈に焼きついている光景だ。

あれは父の戦死が伝えられた日だったのか。それとも終戦の日だったのか、確かではない。後になって、その日のことを聞き出すことはとても母には酷だと思い、私には出来なかった。母のひざの上にポタッ、ポタッと止めどなく落ちる大粒の涙を見て、私は何も言えず、ただただ母にピッタリとくっついて身動きも出来ず、座って母を見ていたように思う。

その日以来、母は何かを覚悟したのか、1度も涙を見せたことがなかった。その日から彼女の戦後は始まった。

私の家族を例にとってみても、父の戦死はどれほどの犠牲と影響を及ぼしたことか。全国の戦死者の方々のそれぞれの家族も、同じことが言えるだろう。幸い、私たちはなんとか順調に生活できた方だと思う。しかし、筆や言葉では表現できないほど、悲しさや辛さを味わってきた人々は数え切れないことだろう。

学徒出陣や特攻隊の若者たちがどんな思いで散っていったのか。終戦後、処刑されたのはA級戦犯だけではない。あの一方的な東京裁判や外地できちんとした調査も行われず、裁判とは名ばかりのあわただしい裁きを受けて絞首刑や銃殺刑によって命を奪われたB級、C級と言われた若者たちがいたことを忘れてはいけない。

誰に見取られることもなく、誰に語ることも出来ずに死に、そして、忘れられていく英霊たち。せめて年に1度の終戦記念日だけでも、静かに思いをはせてほしい。このことを家族で話し合い、子どもたちに伝えていくことが教育であり、親の責任なのだ。全ての戦死者の思いを風化させてはならない。

【札幌タイムス2003年8月21日(木)(20日発行)から、許可を得て転載】

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