【第21回】
人にも、企業にとっても、心機一転の好機。引っ越し
これまでに数え切れないほど引っ越しをした人もいれば、一度も自分の家を動いたことがない人もいると思う。「引っ越しマニア」と言われる人もいれば、自分の意思とは関係なく、転勤族のように仕事上、やむなく引っ越しをする人もいる。住み慣れた土地、好きになった土地に、後ろ髪を引かれる思いで離れる人も多いことだろう。子どもの学校のことなどを考えて、ご主人だけが単身赴任で遠方へ行く例も多い。独り者が気軽に引っ越しするのとは違って、家族全員が他の土地に行くのは大変なことだ。今は専門の業者が、いろいろやってくれるので、昔と違って楽になったとはいえ、引っ越ししてからがまた大変で、荷物をひとつひとつほどいて、それぞれの場所に入れていくのは苦労なことだ。結局、家庭ではほとんど主婦がやらねばならないのだろう。
私は学生時代を除いて、引っ越しというものを経験したことがなかった。当時の学生は、荷物などほとんどないので、引っ越しも簡単なものだった。札幌の高校を卒業して、大学入学のために上京した。今思い起こしてみると、何から何まで、親にしてもらったと思う。母親と上京して知人から不動産屋を紹介してもらい、高円寺で何軒かの下宿屋を訪ねたがどれも気に入らなかった。いやそれ以前にどこも満室だったのだ。午前中探しても空いているところがなく、疲れ果てて母と休憩がてら昼食を取ろうとそば屋に寄った。そのそば屋で近所にいい下宿屋があると聞いて、気を取り直して向かった。なかなか小ぎれいな下宿屋だった。
何と45年も前の話だ。こうしてペンを走らせると、当時のことが走馬灯のように次から次へと思い出される。元気な江戸っ子弁のおばさんが出て来て「あら、ちょっと来るのが遅かったね。もう満室だよ。みんな早くから探すからね。何?札幌から来たの。今からじゃ、もう他のところ探しても無理だと思うよ」。私は今まで見てきた下宿と違ってきれいな家なので、すっかり気に入り「おばさん、何とかなりませんか」と頼んだ。
「そうねえ。今は満室で空きは無いのよ。でも3カ月したら1人出るから、それまで知らない人と2人でもいい?実はね、少し広めの部屋に住んでるサラリーマンがいるのよ。彼にそれまで一緒に住んでもいいか聞いてみるかい?」
「ええ、一緒でもいいです。ぜひお願いします」
「ちょっと待っててね。今聞いてくるから」
すぐにおばさんは戻って来た。「あんた、良かったね。彼がいいってさ。まあ、お上がりよ」と、母と私を自分たちの茶の間に上げた。
「今、部屋を見せるからね。疲れたでしょう。その前にお茶でも飲みなよ。このかりんとおいしいよ」。気さくな感じのおばさんは、下町言葉でポンポンと話を続けた。
「あんたは何て運がいいんだろ。うちみたいないい下宿屋は、今時なかなかないよ。建物も造りも立派だろう。下宿屋にはもったいないのさ。実は前は旅館してたんだよ。一時は随分はやってね。良かった時もあったんだけどね。最近はホテルなんかあちことに出来て、さっぱりさ。それで下宿に変えたわけ。今のほうがずっといいわよ。あんたみたいな若い人たちとワイワイガヤガヤやってる方が、私の性には合ってるみたい」
そうだったのか。道理で下宿屋にしては粋な造りで、立派に見えたんだと納得した。
「そうそう、それにね。うちは主人が近所で肉屋をやってるの。だから、毎日ビフテキやカツレツやカツ丼がたらふく食べられるよ。こんなとこ、どこにもないわよ」
確かにあの時代にそんな下宿はなかったと思う。
「ヘェー、おじさんが毎日、店で余った肉を持ってくるんですか?」
「何言ってるのよ。江戸っ子だよ。そんなケチなまねはしないよ。大事な学生さんたちを預かっているんだ。将来はどんな偉い人になるかもしれないよ。毎日1番いいところを先に用意するのさ。あら、そうそう、同じ部屋になる人を紹介するんだったわね」
1階は下宿のおじさん、おばさん、高校3年の1人息子、そして親せきの母子が住んでいた。下宿人たちの部屋は2階で、6部屋あった。
「半田さん、入っていい?今度、あんたと一緒する学生さんの池上さんよ。札幌の出身だって。あんたは東北の出身だったよね。北国同士だから気が合うかもね」
同室する半田さんは25歳くらいのサラリーマンで、下宿では全員大学生の中のたった1人の社会人だった。素朴な感じの人で無口だった。後で分かったことだが、東北なまりを気にしてあまり話さなかったのだ。
母は安心したように「大丈夫よね」と私に念を押した。それから、全ての手続きを済ませて、母は東京を離れた。あの頃の学生は、ほとんど食事付の下宿住いで、今のマンション暮らしなど考えられなかった。食事は1階の茶の間で家族と一緒で、にぎやかなものだった。言った通り、夕食には厚い肉が必ず出た。どっさりキャベツの盛った皿に、できたてのカツレツがジュージューと音をたてていた。当時としては考えられなかったことである。おばさんはそれが自慢で、いつもそのことを強調していたものだ。
大学の1年目は、それなりにまじめな大学生をしていたが、2年生になって東京にも慣れ、大学にも慣れてくると、私には段々おばさんがうっとうしくなって来た。今になってよく分かるのだが、何かと干渉してくるのだ。特に夕食時間に遅れることをとても嫌った。自慢のカツレツを温かく、出来たてで食べさせたいのに、遅い時間に帰って来て、冷たくなったのを食べられるのが、彼女には耐えられなかったのだろう。
それなのに、私はどんどん帰宅時間が遅くなっていった。その度におばさんの嫌味な声は大きくなっていった。コンパなどがあると、深夜に帰って来たりする。するとおばさんは早々と入り口の戸に鍵をかける。私たち学生の遅れ組は、麻雀をやっている仲間の部屋に電気がついているのを見つけると、その窓目掛けて小石を投げ、戸を開けてもらったものだ。大声をあげて開けてもらおうなどしたら、おばさんが起きてきて玄関に仁王立ちになってどなりつけてきたものだ。
今、気骨のある下宿のおばさんはいるのだろうか。しかし、当時の私にはうっとおしくてたまらなった。おまけに私のフィアンセ(今の家内)が下宿に訪ねてくると、必ずこう言うようになった。「あんた、あんな遊び人とは、つきあうの止めなさい。私も長いこと下宿やってるけど、あんな遊び人は見たことないよ。悪いこと言わないから私の言うこと聞きなよ。いくらでも、もっといい人紹介してあげるからさ」
きっとおばさんの言う通りだったのかも知れない。
「ああ、もういやだ。こんなところもう耐えられない。そうだ、引っ越そう」
本当の意味での、私の初めての引っ越し作戦が始まった。まず実家に、今の下宿がいかに駄目かを手紙に書いて、何度も出した。自分の手紙では客観性がないので、友人たちにも頼んで、手紙を書いてもらった。それが功を奏して、何とか親の了承を得たのである。
「ああ、これで引っ越しができる!」。新宿が近い方がいいと、大学からは遠くなるのに、中野近辺を探した。とうとう良い下宿にたどりついた。優しそうなおばさんで、あまりうるさくなさそうなのが気に入った。銭湯が隣りなのも嬉しかった。ご主人は大工だった。おばさんは思った通り優しく、何ひとつ干渉はしなかった。ただ、食事は以前の下宿とは天と地ほどの質素さだった。米は1番安いのを使い、おちょこ一杯の酒を入れて炊くと少しはましになると、それをやっていた。おしんこは、もうこれ以上薄くは切れないほどに薄く切り、いつも2枚と徹底していた。大工のおじさんは仕事から戻り晩酌をしだすと、酔いが回るにつれてひどくからみ出すのが難点だったが、私は自由を手に入れすごく満足だった。束縛されない開放感だった。
独り者の学生の引っ越しなんて楽なもの。布団類だけを先送りし、あとは見の回りの物と衣類、本類と茶わんにはしくらいで、ボストンバックひとつでよかった。
これが、一家の引っ越しとなると大変だ。私は2年前、自宅の引っ越しを初めてやった。わが家は古い家なので、祖父母の物、父母の物、私たち夫婦の物、子どもたちの物、孫たちの物と、整理しだすと大変で、何カ月も前から週末をほとんどつぶしてしまうほどだった。そして引っ越しをしてからの荷ほどき、さらにそれぞれの場所に適切に入れる、置く…。もうくたくたである。
1番困ったのは、必要な物がどこに入れたのか見つからないことであった。普段からいつも整理をして、無駄なものをいかに増やさないでおくことが大事かを思い知らされた。日々の中で、いかに身を軽くしておくかを意識するか、しないかで大きな差が出来るものだ。引っ越しとはそういう意味で、時として私たちに生活の基本となる示唆を与えてくれる。シンプルイズベストだ。
実は私は今、また引っ越しの真っただ中にいる。池上学院は国道36号沿いの豊平4条3丁目から、北海学園前の豊平6条6丁目に引っ越すのだ。現在地では約 10年を過ごしたが、丁度、学園前地下鉄のすぐそばに良い校舎を持つことになった。駐車スペースが充分にあり、まわりの環境もとても良く、生徒さんたちにとってもこれほどの場所はないと考えた。平成15年9月8日から新館にてのスタートである。また、豊平3条5丁目には、池上学院高等学校の校舎が来春の開校に向けて建設中だ。
引っ越しをするということは、1個人の場合も1企業にとっても、ある意味での新しいスタートの時になるのではないか。気持ちの切り替えのチャンスとなる。結婚、就職、進学などは家族の新しいスタートになりえるだろう。それぞれを人生の大きな転機として与えられたのだと感謝して、前向きに進んでいきたいものだ。
【札幌タイムス2003年9月11日(木)(10日発行)から、許可を得て転載】





