【第27回】
石の上にも3年。英会話に取り組み、見事マスターした中年医師
「3日坊主」という言葉は、良い例としては言われない。しかし、「石の上にも3年」という言葉は、辛抱して継続すれば最終的には物になる例えとして、昔から言われてきた。私も教える側として、今までに色々な生徒に接してきて、たくさんの3日坊主に会ってきた。何事においても、まず3日、そして3カ月が節目としてあり、その継続の上に3年があり、それは大変大きな力になる。
ずいぶん以前の話になるが、若い医者や歯科医師が数人でやってきた。彼らだけでグループを作るので、英会話を初歩からやり直したいと言う。海外に行くことも多くなり、周りからは、医者だから英語ぐらいかなり話せると思われているが、実はそうでもないので、辛いということもあった。
私は仕事でいっぱいだったが、あまりにも熱心に頼まれ、承諾した。一流ホテルの一室を借り、アシスタントに青い目の若いアメリカ人の女性を置き、受付に大学生の私の生徒をアルバイトに雇った。週1回、夜の6時半から始めることにした。コーヒーとケーキつきというデラックス版の英会話の授業であった。20名に近い生徒さんの年齢は30代前半から40代前半で、2名だけ中年という構成であった。学生たちは勉強が仕事だが、社会人、つまり大人が勉強を続けるには、とにかく楽しくなくてはいけないので、そのことに心掛けレッスンは始まった。さすが医者たち、それも30代、40代なので覚えも早い。学生時代に十分基礎ができているので、聴く力、話す力をつけていくだけ。思っていたより順調に授業は進んでいった。ただし、中年の2人はどうも足手まといという感じなので、私は途中で彼らに合わせて少し足踏みして、ゆっくり復習を入れるようにした。
3カ月ほどすると、若手の連中が時々さぼるようになってきた。1回くらい休んでもゆとりがあるので、すぐ追いつけるから大丈夫、という気持ちが大きかったのではなかっただろうか。時には3人が休んだりする。どうしたのかなと思っていたら、受付をしている大学生が私に言った。「さっき、ロビーで3人の先生たちを見ました。レッスンに来ると思ってたら、3人で待ち合わせしてたような感じで、ホテルから出ていきましたよ」
英会話の勉強をするので、それぞれの奥さんたちは気持ちよく参加させているのに、その時間を使ってススキノにでも繰り出したのか、と私は頭に来た。ちょうどうまく追いついていける程度に欠席するメンバーが出てきた。そうした中でも、中年のお医者さん2人は絶対に1度も欠席をしなかった。特にB先生は熱心で、色々と質問する。それもかなり易しいことを聞いてきた。基礎がほとんどできていないのだ。かみ砕いて分かりやすく説明すると、本当に理解ができてうれしいという顔をした。しかし、周りの若い人たちの中には「またか、この人なんでこんなことも分かんないんだろう」と、見下すような顔をする人もいた。
そんなことはお構いなしに、B先生はまるで中学1年生が初めて英語を覚えるような意気込みを見せていた。実のところ、クラス全員の足を引っ張っているような感じで、みんなと比べると、小学生と大学生ほどの差があるのは確かだった。1人だけ段違いの落ちこぼれ状態だった。
しかし、他の誰が休もうと、B先生は絶対に休まず出席した。そして授業が終了すると、必ず感動した様子で「いやー、池上先生、今日のレッスンもとても勉強になりました。本当に楽しいです」と、笑みを浮かべて言うのだった。
若いメンバーのさぼりは、相変わらず続いた。20名ほどのメンバーに、2、3人そして多い時は数人以上も欠席者が出ることがあった。私は少しずつ頭に来ていた。
ある授業の日、レッスンの終わる時間になってきた頃、受付をやっている大学生が、私に耳打ちをした。「K先生の奥さんが、ロビーで待っているからと主人に伝えてくださいと、このメモを持ってきたんです」と私に見せた。メモにはこう書かれていた。「今日も英語のレッスン、お疲れさまです。レッスンの後、久しぶりにディナーを一緒しましょう。ロビーで待っています」。私は驚いてしまった。一番よく休むK先生はその日も休んでいたのだ。奥さんはK先生が真面目に英語のレッスンをやっていると信じ切って、たまには授業の後、ご主人を慰労しようと考え、ドレスアップまでして、ホテルにやって来たのだった。
私は困ってしまった。「K先生は来ていない。奥さんはロビーで待っている。どうしたらいいのか」。残りのレッスンは、気もそぞろになった。「しかし、どうして私が困らなければいけないのだ。本当にK先生にも困ったものだ。これは大変なことになるぞ」。そんなことを考えながら、レッスンは終了した。受付の大学生も困った様子で「池上先生どうしましょう。K先生がさぼっているのがバレたらどうなるんでしょう。あの奥さん、かなり気が強いって話ですよ」。他のメンバーが次々とレッスン会場から出ていった。私は足取りも重くロビーに向かった。奥さんは、メンバーににこやかに挨拶をしている。そっと隠れて帰りたい気持ちだったが、奥さんはすぐ私を見つけた。「あら、池上先生、いつも主人が大変お世話になってます」。わぁー、今夜は特にめかして来ている。お化粧も念入りにバッチリ、相当のドレスアップだ。そして、聞きたくない嫌な言葉が続いた。「あの、うちの主人はまだでしょうか」。「いや、あの、そのですね。ご主人は来ていたんですが、途中から何か用事があったのか、少し早めにお帰りになったんです。ちょうど、奥様のメモと入れ違いくらいでした。すれ違いだったんでしょうかね」。「私、今日は驚かせようと思ったものですから、先に何も言わなかったんです。あら、じゃどこに行ったのかしら」。
何とか、その場を取りつくろったが、私はだんだん頭に来た。私はその頃も、大変な忙しさだったけれど、彼らのどうしてもという熱意で、何とか時間を作ったのだった。「もう、やめよう」。他の熱心なメンバーには可哀想だったが、私は決心して、その月をもってレッスンを中止した。
1週間もしないうちに、B先生が私の家を訪ねてきた。
「池上先生、今日はお願いがあって参りました。私は英語は敵国語という時代に育って、若い頃に全然英語は勉強していないんです。社会人になって、英語が何も分からない辛さをつくづく味わいましてね。今までにいろんな英会話スクールに実は通ったんですが、どこでも物になりませんでした。ほとんどの英会話スクールではネイティブの外国人を使い、数カ月もしないで、次々に変わってしまいます。グループレッスンで10人くらいで始まっても、面白くないから数人になり、最後は私1人になり、他のクラスと合併させられたりと色々ありました。あきらめかけていた時、池上先生に巡り合いました。初めて分かる楽しいレッスンに巡り合ったんです。もう、うれしくてうれしくて、しようがありませんでした。どうかお願いです。何とか続けていただけないでしょうか。できの悪い、足手まといの生徒だと思いますが、絶対まじめに通います。お願いします」
ここまで言われると、つい乗ってしまうのが私の良いところなのか、悪いところなのか。
「B先生、もう私のスケジュールは、連日全部埋まってしまっているんです。夜遅くでも構いませんか。水曜日は普段の日より少し早く私の講義が終了するんです。普通、夜10時くらいまでびっしり入っていますが、水曜日は夜8時半で終わります。夜の9時、それも、私の自宅に来てもらえますか。私も頑張りますから、B先生、ひとつ、英語を1から始めてみますか」
「ええ、何時でも、どこへでもうかがいます。1からやってもらえるなんて、夢のようです。ありがとうございます」
当時、私は朝から晩まで、仕事でびっしりであった。夜もレッスンが毎日10時くらいまであった。週に1回、水曜日は少し早く仕事が終わるので、貴重な体を休める日だった。しかし私はB先生の熱意と真面目さに応えた。
私にとっても、ひとつの挑戦だった。英語をほとんどやったことのない中年の人をどこまで持っていけるのか。
中学1年生の教科書のレッスン・ワンから始めた。ヒヤリング、文法、ディクテーション。すべてを1から始めた。B先生の熱心さは驚くほどであった。最初は口が堅くて、なかなかきちんとした発音ができなかったが、2カ月、3カ月と重ねていくうちに、徐々に発音も良くなった。1年が過ぎ、2年が過ぎていった。彼は絶対に休まなかった。とにかく、雨の日も風の日も、何があろうと必ずやって来た。通夜の席からも喪服で現れた。そうなると、私の方もひどく疲れた日でも、こちらから休ませてくれなどとは、言えなくなった。中学1年から始めて、高校3年の教科書も終了する頃には、日常会話は不自由しなくなり、海外に出掛けては各国に友人を作り出した。英字新聞も読めるようになり、外国の友人たちと英文で手紙のやりとりも十分にこなせるようになった。
3年が過ぎていた。普段はあまり使わない我が家の日本間のひとつが、B先生とのレッスン場だった。いつの間にか、家族の者たちはその部屋を「B先生の部屋」と呼ぶようになっていた。亡くなった祖母は当時、毎週レッスンに来るB先生のために、冬には薪(まき)ストーブに火をつけ、暖めるのが生きがいのようになっていた。私が仕事の都合で遅れた時は、祖母がお茶と菓子でよく相手をしてくれていたことを思い出す。
「石の上にも3年」。まさにB先生はそれをしっかりとやり遂げた。3年の月日はがっちりとした、ゆるぎない英語の基盤を作り上げた。そしてその後もレッスンは継続して行った。5年、6年と過ぎていった頃には、いろんな外国人との交流などで通訳を買って出るほどになっていった。そして、とうとうある異業種交流の国際大会でのMC(総合司会)を英語でやってのけたのである。
グループの中で英語の1番できなかった人が、年齢もかなりハンディと思われていた人が、プロの境地にまで達することをB先生は私に見せてくれた。
【札幌タイムス2003年10月23日(木)(22日発行)から、許可を得て転載】





