【第28回】
セーム・スキン。香港・大豪邸・歓迎晩餐会・中国人使用人
日本が高度成長の波に乗っていった1960年代後半、実は日本に住んでいた外国人、主に米国人たちが日本を脱出し始めた。私の古くからのアメリカ人の友人、アダムズ氏もその1人だった。
戦後のどさくさの中で、一部のアメリカ人たちは、その優位性と特権を利用して、ずいぶん、日本でよい商売ができたようであった。アダムズ氏もそうした間に、貿易商としての確固たる基盤を作った。彼に初めて出会った1950年代後半の頃は、会社も何10人もの社員を抱え、羽振りもすごくよかった。私は2年ほど通訳として、彼のビジネスの手伝いをした。
初めて彼の邸宅を訪れたときは、本当に驚いたものだ。日本にこんなところがあったのかと思った。何人も日本人のメイドやハウスボーイが住み込んでいて、本国アメリカ以上の豪華な生活が繰り広げられていた。ハリウッド映画でしか見たことのない、目がくらむような生活であった。アダムズ氏は夫人を2年前に亡くしたばかりだったので、それを忘れるためなのか、特に生活は華美で、パーティが毎夜続いていた。当時の日本人の生活から見ると、別世界の感であった。
まだ、日本人がマンション暮らしを知らない時に、東京のど真ん中には外国人専用の、今で言う億ションがあり、アダムズ氏のアメリカ人の友人たちが住んでいた。どのお宅にも、日本人の使用人が何人もいた。何しろ、その頃の日本人の給料は、彼らから見るととてつもなく安く、ふんだんに日本人の使用人を使えたのである。本国アメリカではできない王侯貴族の生活が、その頃の日本においては可能だった。
今、日本人のサラリーマンでも転勤などで東南アジアの発展途上国で生活するとなると、プール付きの豪邸に住んで、使用人を雇って、かなり優雅な生活ができると聞く。まさにそれと同じことが、あの頃のアメリカ人は日本において可能だったのである。東京の豪邸に住み、避暑地に別荘を持っているのは普通であった。海水浴場などでも、ある地区は日本人立ち入り禁止で、西洋人だけの別荘が並んでいた。私の学生時代、大学の友人のアパートの隣の部屋では、4畳半1間に5人の家族が住んでいた。そんなことは、あの頃の日本人の生活としてはよくあることだったことを思うと、大変な差であった。
しかし、日本が経済発展をし出すにつれて、給与もどんどん上がっていった。それにつれて、10人の日本人の使用人を雇っていた裕福なアメリカ人も、それが 5人になり、3人になり、1人のメイドを雇うのも大変になっていった。これでは米国にいるのと何も変わらない。しかし、日本でのビジネスは続けていきたい。そこで彼らに何が始まったか。香港に目をつけたのだ。
その頃、中国からたくさんの難民が香港に入ってきた。山づたいに、また海を泳いで、貧しい共産中国から厳しい監視の目を逃れて命からがら逃げてきた。ちょうど、今の北朝鮮から中国へと逃れてくる人たちのようだ。そんな訳で、食べていくのに精一杯の中国人が、次から次へと香港に流れ出ていった。
アメリカ人たちはそれに目をつけた。生活のレベルを下げなくても、香港ではやっていけると、東京から香港に逃げ出し始めた。
アダムズ氏から電話が入った。「今の日本は人件費が高くて、とてもやっていけない。日本人1人雇うお金で、中国人10人は雇えるよ。それに物価も安いし、英語も通じるから、私も会社は東京に残して稼いでもらうけど、生活は香港に移すことにしたよ。落ち着いたら連絡するから」。そして、半年してから手紙が届いた。
「素晴らしい土地と家が手に入った。日本では考えられない価格だ。快適な日々を過ごしている。ぜひ、見に来てほしい」。
ちょうど、私はタイのバンコックでの国際会議に出席の予定があったので、帰りに香港に寄ることにした。空港にアダムズ氏が迎えに来てくれた。なんと日本にいた時は、キャデラックに乗っていたのに、とても小さな車に乗ってきた。よく見ると、てんとう虫と呼ばれていた日本車スバル360なのだ。それも改造して、オープンカーにしてあった。そこから立ち上がって私を迎えてくれた。合理性と言うのだろうか、香港は道が狭く、人が多くてごみごみしている。そんな中を、アメリカの大型車では動きがとれないのだ。確かにスバル360は、スクーターのように人や自転車の中をすいすいと通り抜けた。
アダムズ氏が買ったのは香港の最高の住宅地で、豪邸が点々と見えた。その中でも最高の所だった。海が一望に見える岬の上に立つ豪邸だった。香港の有名な女優さんの邸宅だったとのことだった。
入り口の横にある駐車場にまずびっくりした。何とワーゲンのビートルだけが数台並んでいるのだ。それもすべて色違い。赤・黒・青・黄・グリーン。香港では大型車は不便なので、小型車にして、その代わり、その日の気分や服装によって乗り換えようと言うのだ。ぜいたくさのレベルが違うのだ。スバル360は、さしずめ、ゲタかサンダルとして使用するのだろう。中国人のハウスボーイ2人が車を一生懸命洗っていた。
入り口では10人以上の中国人の使用人たちが、珍しげに出迎えてくれた。「中国から逃げてきた2家族を住まわせているんだけど、日本人1人雇うより安いんだよ」と、アダムズ氏は私にウィンクした。全員で13名だったと記憶している。料理人、掃除婦、洗濯女、運転手、ハウスボーイとか、全員が何かの役割をやっているのだった。
まず、私の泊まるゲストルームに案内してくれた。窓から海が見える2間続きの快適な部屋だった。忘れられないのは、箱に入ったティッシュとトイレットペーパーである。今でこそ、日本でも出回っているが、ペーパーに素晴らしい花柄が刷り込んであった。なんというぜいたくだろうと驚いたことを思い出す。あの頃の日本は茶ちりが全盛で、ボックスティッシュはまだまだぜいたく品だった。田舎ではまだ、新聞紙を切ってトイレに置いてある家もあったくらいだ。
彼のマスターベッドルームは圧巻であった。30畳くらいのど真ん中におさまっていた、女優さんが使っていたというキングスベッドはとても形容できない、ただ豪華絢爛としか言い様のないものであった。
夜、私のための歓迎晩餐会がディナールームで開かれた。何10畳あっただろうか。一面ガラス張りの戸が開かれて、香港の海がパノラマのように展開された。
香港におけるアダムズ氏の友人たちが、30名ほど招かれた。アメリカ人、イギリス人、ドイツ人、フランス人など、すべて西洋人たちだった。アダムズ氏がホスト席に座り、私がメインゲストとして彼の正面に座り、テーブルを囲んで両サイドに他のゲストが座った。みんなが私に挨拶に来る。すると、中国人の使用人たちが、わずかに戸を開けてのぞいているのだ。そして驚いている様子なのだ。彼らは西洋人のお客しか見たことがなく、東洋人である日本人がそこで主客になっていることは不思議でもあり、驚きなのであった。
ディナーが始まった。中国人のボーイが銀のスープ入れを大事に抱いて、しずしずと入ってきた。どうしたらいいか、迷っているような顔をした。そして、なんとアダムズ氏のところに向かった。アダムズ氏はボーイの手を「ピシッ」とたたいて厳しく言った。「ゲスト・ファースト」。「ソーリー・サー」。ボーイは急いで私のところに走ってきた。
「オー」と、ドアの隙間から驚きのため息が聞こえた。ちらっと横を向くと、ドアの隙間にたくさんの中国人の使用人たちの目が見えた。ほかの西洋人たちは何も気づかなかったことだろう。私には確かにはっきりと彼らのどよめきの声が聞こえた。ボーイとしては、東洋人がゲストにいることは初めてなので、いくら日本人でもと考え、主人に伺いを立てに行ったのだろう。
当時、アパルトヘイトの南アフリカでさえ、日本人は名誉白人として扱われていたが、共産中国から逃れてきた彼は、日本人は別格だということは知っていたかもしれないが、まずは主人に聞いてからと思ったのだろう。しかし、アダムズ氏は私に恥をかかすまいと、とっさにボーイの手をたたいたのである。
何事もなく、ディナーが始まり出した。他のゲストと話をしながら、私はふと考えた。
「待てよ。私は日本人というだけで、このディナーの主賓として座っている。しかし、他の東洋人は西洋社会において、このような風には接してもらえない。私はここに初めて来て、今まで特別に大したこともしてきていないのに、ただ、日本人だというだけで、この場で主賓として座っている。そして西洋人たちは、ごく当たり前という雰囲気で対等に接している。これは他の東洋人に対しては普通のことではないのだ」と気が付いた。
「これは、今までの日本人たちが、西洋諸国との歴史の中で並々ならぬ努力をしてきて、その積み上げの上に、日本人の地位がある。だからこそ今、私がこうしてこの場に座っていられるのだ。この場を次の日本人たちのために、私はどうしていけばいいのだろうか」。そう考え出すと、せっかくの料理の味が分からなくなりだした。
私は日本人としての誇りを持って、その場を何とか持たせていった。
ディナーも無事終了し、アダムズ氏に促されて、バールームの方へと他のお客たちが移動し始めた。しかし、私は他の西洋人たちのように、すぐ、その場を立ち去る訳にはいかなった。気が付くと、私は厨房の方へ向かっていた。
私はさっきから少し開いていて、いくつもの目があったそのドアを静かに開けた。中国人の料理人やボーイ、使用人全員がそこにいた。彼らは突然入ってきた主客を見て、ひどく驚いた表情をした。私は言った。「ありがとう。今日の料理はとてもおいしかったですよ。皆さんのおかげで素晴らしい時間を持つことができました。今日は本当にありがとう」。みんなが集まってきて笑顔で私を取り囲んだ。そして、そっと自分たちの手を私の手にくっつけて来た。「セーム・スキン(同じ皮膚だよ)」とニッコリ笑った。私も答えた。「イエス・セームスキン(うん。同じ皮膚だね)」。厨房が一斉に彼らの拍手でいっぱいになった。
【札幌タイムス2003年10月30日(木)(29日発行)から、許可を得て転載】





