社会に貢献する素晴らしい人間作りに協力します。|池上公介の教育論|2003年度札幌タイムス掲載(全記事掲載中)

【第29回】
車椅子のT君。失って初めて得るものとは…

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朝早くに事務所の電話が鳴った。職員たちは他の電話に対応しているのか、誰も取る様子がない。直接、私が電話を取ることはあまりないのだが、待たせては申し訳ないので、自分の部屋から出て行った。

「お待たせしました。おはようございます。池上学院です」

「僕は今25歳で、車椅子なんです。これから大学受験をしたいんです。色々な予備校に行って見てみましたが、どこも車椅子では入れません。車椅子はシャットアウトなんです。池上学院だけが車椅子で入れるんです。実は昨日、おたくの周りを全部車椅子で動いて調べてみたんです。池上学院はどの校舎も車椅子で入れるんです」

「ああ、そうでしたか」

実は私は、その時まで池上学院がそうなっているとは意識していなかった。偶然にそうなっていたのであった。

「ぜひ、お会いしたいのですが…。話を聞いて欲しいんです」

「どうぞ、どうぞ。いつ来ますか」

「今日の午後1時でよろしいですか」

「結構です。お名前は?」

「Tです」

「分かりました。T君ですね。今日の午後1時、お待ちしています」

振り返ってみると、今までも車椅子の中学生も、高校生も、うちに通っていたことがあった。「気がつかなかったけど、うちの学院はバリアフリーになっていたんだ。ごく自然に…。25歳になっているんだ。どんな事情があるのかな…」などと考えながら、彼を待った。

車椅子に乗って、T君が事務員にうながされて私の部屋に入ってきた。テーブルの椅子は、先に抜いておいた。そこに彼の乗っている椅子が、きちんと入った。

「こんにちは」

「初めまして、Tです」

清潔感のある、きりっとした顔の好青年だった。

「お話を聞きましょうか」

「はい、実は僕は18歳まで、人生も真面目に考えずに、ただ成り行きの好きな行動をしていました。親をずいぶん心配させました。高校を卒業してからもバイクを乗り回していました。親は専門学校か大学へ進学したらと言ってくれたのですが、その頃の僕は遊ぶのが面白くて、親の心配を無視して、毎日バイクをブッ飛ばしていたんです。暴走族ですよね。運命のその日も、いつものように猛スピードでバイクをブッ飛ばしていました。そこから記憶がありません。どのくらい時間がたったのか、何日間意識がなかったのか、目が覚めると、僕は病院のベッドに寝かされていました。体を動かそうとしても全然動きません。自分が今どうしてここにいるのか、はっきり分かるまで時間がかかりました。下半身は完全まひで何の感覚もないんです。その事実を認めることがしばらくはできませんでした」

「長い長い治療の月日が流れて、やっと車椅子に乗れるようになっても、自分のやり切れない気持ちを周りに八つ当たりしたり、親や他の人たちにぶつけていました。なんで自分がこんな目に遭うんだって…」

「リハビリが始まりました。最初の2年間は、排泄の練習でした。来る日も来る日も、食事の後、強い下剤を飲まされ、20分後に便器に体を移して座るんです。もちろん、何の感覚もありませんから、排便したのか、しなかったのかも、分かる訳がありません。何度もそれを繰り返し、その度に周りに怒鳴りちらし、やり場のない苦しさやせつなさ、くやしさ、そして敗北感を結局、親や周りにぶつけていました。リハビリ・ルームで正常な上半身を鍛える時でさえ、投げやりになってしまい、悶々とした日々が続きました。何もかも終わりだ。ああ、いやだ。もう、これ以上生きたくない。何度死のうと思ったか分かりません」

「ある日も排便で粗相をしてしまい、何のやる気もないままにリハビリを無気力にしていました。その時です。自分の中に閉じこもってばかりいた僕は、あまりにもやるせなくなって、初めて周りを見たんです。そこには、幼児や小学生、中学生のしょう害を負った子どもたちが、必死になってリハビリをやっていたんです。目が見えなくなった子、耳が完全に聞こえなくなった子、見るのも辛いほど顔を損傷した子、両手を失った子、自分よりもずっと大変な子どもたちがたくさんいたんです。彼らは必死になってリハビリをやっていたんです」

「『何だ俺は。俺は目も見える、耳も聞こえる、口もきける。丈夫な上半身があるじゃないか。何をやってるんだ、俺は』と考えた時、ある感動で体が震えて止まりませんでした。子どもたちの必死な姿は、ショックでした。失って初めて、なくなったものの大切さが分かるんですね。歩けることがどんなにありがたいのか、何もかも分からなかったんです。神様は丈夫な上半身を私に残してくれました。子どもたちが、僕の目を覚ましてくれたんです。それから僕は変わりました。そして、勇気と希望を与えて、励ましてくれたのは、担当のお医者さんでした。『君は将来、結婚だってできるんだよ』って励ましてくれたんです」

涙をこらえて聞いていた私も、思わずこう言った。

「そうだよ、T君。君はなかなかかっこいいし、素晴らしい青年だ。きっと君を好きだと言う女性が必ず出てくるよ。うん、絶対に」

「ええ、お医者さんもそう言ってくれました。その上に将来、子供も授かることが可能なんだと説明してくれました。僕が事故に遭った時は、18歳でした。当然、マスターベーションの経験だってありました。その時の快感だって記憶しています。今の僕は下半身完全まひですので、僕の性器は今、ただ小便の通る管に過ぎません。その小便の通る感覚さえもないのですから。お医者さんは『肛門から電気を通し、射精させることができるから子どもも大丈夫だ』と言ってくれました」

そこまで聞いた時、私はもう涙を止めることができなくなった。

「そうだよ、T君。これからの君の人生には色んな可能性がいっぱいあるんだから」

私は声が詰まって、それ以上話せなかった。担当のお医者さんの励ましの言葉の強さにも感動した。T君はさらに話を続けた。

「ようやく今、1人で色んなことができるようになりました。今日も自分で車を運転して来たんです。ずいぶん時間がかかってしまいましたが、残された僕の上半身の全てを最大限燃焼させて生きたいんです。長いトンネルからやっと抜け出ることができました。大学へ行こうと決心しました。ただ心配は、長い間勉強から遠ざかっているので、今からでも大丈夫なのかということなんです」

「T君、何の心配もいらないよ。今のその強い気持ちがあれば大丈夫です。学び始めるのに、年齢やブランクは関係ありません。60歳から始める人もいるし、 80歳から始める人もいますよ。君はまだ25歳だ。それにね、池上学院の大学受験科は、個別指導なんです。それも池上方式と言われる個別指導は、他のものとは違うんです。抜けてしまった部分を取り戻すことができるし、君に合わせて分かるところからそれぞれの教科を始めていけるんですよ。その上に少人数ゼミナールを組み合わせて行く、独特の勉強方法を取り入れているんです。開校以来90%以上の合格率を誇っています。全国でも中々ないと思いますよ。普通の予備校は30%前後と聞いていますから。あとは君の努力次第です。全面的に応援しますよ。私も今日は、君から希望と勇気をもらいました。本当にありがとう」

彼の目がキラキラと輝いて見えた。彼の勉強が始まる前日、私は気になって全館を一応調べてみた。車椅子がうまく通らない場所はないだろうかと思い、廊下、教室と歩いてみた。教室の彼の席は入口から入ったすぐのところにして、椅子を抜いておいた。それぞれの先生たちにも彼のことを説明し、生徒諸君にも協力をお願いした。よし、これで万全、大丈夫と思ったところで、はたと気がついた。

「困った。トイレがバリアフリーになっていない。普通のトイレには車椅子は入れない」

私はすぐに「気づかなかったんだけど、トイレが普通のトイレなんですよ」と、彼に電話をした。

「先生、大丈夫です。そちらに行く前に済ませて行きます。学院では使用しません。心配かけてすみません」

「ああ、よかった」と、胸をなでおろした。

初日の朝、私は外に出て彼を迎えた。赤い車が入口に着いた。すぐに私に気がついた彼は「おはようございます」と、元気にあいさつをしてきた。

「おはよう、T君。君の車は特別仕様になっているんだね」

私はのぞかせてもらった。そして、何か手助けしようと思ったが、心配は無用だった。彼は手慣れた風に自分で車椅子を降ろし、上手にそれに乗った。車は入口の前にそのまま置いていいということも、その時初めて私は知った。車のフロントにしょう害者用のプレートが置いてあった。

彼の勉強ぶりには、目を見張るものがあった。そして、普段の学院での生活においても、全て自分で何事も済ませた。後になって聞いた話だが、教科を担当した先生たちも、彼には特別な気遣いや世話をした記憶がないと言うくらいであった。いつもニコニコして、反対に私たちの方が元気づけられた。猛勉強の結果、彼は見事に一流私立大学の法学部に合格した。

今でも私は、彼に最初に会った日のことを忘れることができない。人は失って、はじめて失ったものの大切さに気づくことが多いものだ。私たちは普通、何でもあることが当たり前だと思って、そのありがたさに気づかない。知っていても、日々生活に流されて忘れがちになってはいまいか。朝、目が覚めて、目が見えるということのありがたさ、生きているということのありがたさを改めて考えてみたい。そして、生きているために、空気をはじめ諸々の色々なものによって生かされていることを、時にはかみ締めてみたい。

【札幌タイムス2003年11月6日(木)(5日発行)から、許可を得て転載】

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