【第33回】
子は親の鏡、親は子の鏡。ペットを通して学ぶこと
私は犬も猫も飼ったことがない。嫌いというわけではない。いや、むしろ可愛らしさを人一倍感じる方である。では、なぜ?それには理由がある。実は私には犬、猫やペットに関して強烈な幼児体験があるからだ。
私には2人の姉がいる。上の姉が小学校1年生の時だったから、私は4、5歳だったのだが、今でも、この体験はあまりにも強烈で、60年のタイム・トンネルを通って、昨日のことのように鮮明に甦ってくる。
学校から上の姉がとてもうれしそうに帰ってきて、何か一生懸命に母に頼み込んでいる。母は「駄目、それは絶対に駄目なの」と諭していた。2人の会話は、こんなだった。
「お母さん、お願い。可愛い小犬がいるの。友達のところで生まれたばかりで、とても可愛いの。私が欲しいって言ったら、くれると言うのよ。いいでしょう、飼っても?」
「何回駄目って言ったら分かるの?生き物は必ず死ぬのよ。可愛いものほど、死んだらどんなに悲しいか分かるの?」
「私、絶対に死なせないもの。どうして駄目なの?自分で全部世話するから。ね、いいでしょう。お願い。お母さんには手をかけさせないから」
「実はね、お母さんも子どもの頃から犬を飼っていたの。素晴らしい犬だったわ。おじいちゃんが買ってくれたの。英国の名犬で、札幌であの頃は、うちにしかいなかった犬だったのよ。それはそれは大事に育てて、可愛くて可愛くて仕方がなかったわ。ところが病気になってね。有名な獣医さんを探しては、あちこちで診てもらったり、高い注射を何回も打ったり、最大限のことをしたの。でも駄目だったの。犬だって命があって、人間と同じよ。一緒に暮らしていたもの、家族と一緒よ。死んだ時の悲しさなんて、とても表現ができないくらい。辛くって辛くって、何日泣いたか分からない。その悲しさをこれ以上、重ねたくないの。2 度としたくないわ、あの思いは。分かってくれる?お母さんはね、あんたたちにそんな思いをさせたくないの」
「いや、私はあの小犬を飼いたいの。だってもう名前も付けたの、カロって言うの。可愛い名前でしょう。お母さん、お願い!」
とうとう祖母まで出てきて、飼っていた犬の死んだ時の話をし出したのだが、何がなんでも飼いたいと、姉は泣いて頼み出した。かなりの時間話し合っていたが、結局、母たちは姉に根負けしたようだった。自分の望みがかなって、姉は早速、小犬をもらいに家を飛び出した。しばらくして姉は顔中を喜びいっぱいにして、家に帰ってきた。両腕の中に、白より肌色に近い可愛い小犬が抱かれていた。
その日から「カロ、カロ」と、姉は時間があれば小犬と一緒だった。学校から帰ってくると、ランドセルを背中にしょったまま、まず、カロのところに行って世話をしてからランドセルを下ろすほど、カロに夢中だった。
真冬の寒い朝だった。外はかなりしばれているようで、室内も寒かった。目を覚ました私は、暖かい布団の中からなかなか出られないでぐずぐずしていた。ところが「ギャー」という姉のけたたましい悲鳴に驚いて、飛び起きた。姉がすごい声で泣いている。何が起きたのかと、私は姉の泣き声がする部屋に向かった。何としたことだろう。雪の積もった庭に、カロはガチガチに凍って死んでいた。戸が少し開いていたのだろうか。夜中にカロは、その隙間から中庭に出てしまい、家の中に戻れなくなってしまったのだろう。氷点下のしばれの中で、完全に凍ってしまったのだ。
「カロ、カロー!」。泣いて、泣いて、泣きまくっている姉の姿は、とても見てはいられなかった。その時「ああ、やっぱりお母さんの言った通りだ」と私は思った。悲しみが消えるまで、ずいぶん年月がかかったように思う。
何年か経って、今度は下の姉が子猫を拾ってきたのだ。今度は上の姉が自分の経験から、さかんに下の姉を諭している。
「あんた、拾った場所に戻しておいで、悪いこと言わないから」
「おねえちゃんと私は違うわよ。おねえちゃんの時は犬だったでしょう。私は猫だから、大丈夫なの」と、理屈にならない説明をしている。上の姉の小犬の時と同じような会話が、母とあったように思う。可愛い子猫の名前はなぜか記憶にないが、下の姉は、それはそれはとても大事に可愛がっていた。そのうち家族全員が子猫の世話をするようになっていった。すっかり情も移ってしまい、我が家のペットになってしまった。
ある日の朝、私は「ギャー」という下の姉のすさまじい悲鳴で目を覚ました。不吉な予感がした。悲鳴と共に泣きじゃくる声がしてくる。私はその声のする納戸に向かった。すでに家族全員がそこに来ていた。何としたことだろう。子猫は琴の下敷きになって息絶えていた。見るも無残に血だらけになって。納戸に入って、立てかけておいた琴にじゃれたのだろうか。琴が倒れて、その下敷きになっていた。
彼女は1週間以上も泣いて何も手につかない状態が続いた。彼女の悲しみが消えるまで、どのくらいの月日がかかったことだろう。その時、私は「ああ、やっぱり。お母さんの言った通りだ」と思った。そんな訳でその時私は、自分ではどんなペットでも命のあるものは絶対に飼わないと強く決心をした。
金魚1匹でも、死ぬのはとてもつらい。ある日、お祭りの夜店の釣堀で釣ってきた金魚を生徒の1人が持ってきた。事務の女の子が、コップに1匹を入れた。それを見て、次の日、講師の先生が大きな金魚鉢を持ってきた。
「コップじゃ、可愛そうでしょう。うちに使ってない金魚鉢があったから、これに入れてください。伸び伸びと泳げるからね」
ああ、小さな親切、大きなお世話だと内心思いながら「どうも、ありがとう」と、私はお礼を言った。大きな金魚鉢に小さな金魚が泳いでいるのが寂しそうと思ったのか、他の生徒が2、3匹入れてくれた。事務員はうれしそうに毎日餌をやった。ずいぶん皆を楽しませてくれたが、結局ある日、1匹が仰向けになって浮かんでいた。
小さな金魚1匹の死だって、私にはとてもとても辛い。だから、私は絶対にペットは飼わない。人生には、どうしても避けられない死がある。両親との別れ、親しい人との別れ、それ以上にそんな悲しみを増やしたくない。
しかし、それは私の考えであって、その死の悲しみよりも、ペットを飼う喜びの方を取る人も多い。今、日本人の3人に1人は、何かしらペットを飼っているという話を聞いた。ある意味では、ペットは現代人にとってヒーリングになっているのだろう。また、ペットの死を通して、命の尊さを子どもたちに教えるということもあるだろう。孤独な老人にとっては、ペットは重要な位置を占める大切なパートナーになっているのだろう。そんな点で彼らはどんなに役に立っていることだろう。もちろん、盲導犬などに対しては本当に頭が下がる。感謝の気持ちでいっぱいになる。
ところが、犬、猫などでずいぶん迷惑している人も少なくない。隣の犬の鳴き声で眠れない。糞の害も大変だ。飼っている人のマナーが大事だ。ペットを飼う喜びを取る人は、ぜひその責任をきちんと取ってほしい。捨て犬、捨て猫が増えている。好きで飼ったのだから、どんな理由があるにせよ、捨てるなんてもってのほかだ。後の後まで責任を取るべきである。
テレビに犬の調教師が出ていた。このところ、どうしても言うことを聞かない、わがままな犬が増えてきて、飼い主が手をあまして、相談に来ることが多いという。「どうにも言う事を聞かなくなった犬でも、ここでは必ずすぐに直せます。しかし、その前に飼い主をきちんと教育しなくては、いくら犬を直しても飼い主のところに戻すと、3日でまた元に戻ってしまうんですよ」と語っていた。
その話を聞いていて、子どもも全く同じだなと、変に感心してしまった。原因があって結果がある。植物や動物など、自然はいつでも私たちに教えてくれる。昨今の親のあり方が、そのまま子どもたちに反映されていることを、あまりにも知らなさ過ぎる親が多い。「どうしてうちの子がこんなになってしまったのか?」などと言って、それが全く自分の生活とは無関係で、原因は他にあると信じて、やれ学校が悪い、友達が悪いと本気で言う親が増えてきている。
そういう人が飼っているペットの方にも同じように影響が出てきて、わがままな犬が増えているのだ。
「フン、この人間、何を考えているのだ。俺に命令するって?とんでもない、俺様を何だと思っているんだ。俺は王様だよ。早く俺の好きなもの、持ってこいよ。何をぐずぐずしているんだ。すぐだ、すぐに持ってこい。その後は昼寝だ。もうちゃんと用意は出来ているんだろうな!」と、こんな具合だ。自分が少しでも気に入らなければ、吠える、噛み付くという風になってくる。
これは全部飼い主がそうさせたのだ。調教師のところへ連れて行くと、直るのに1週間もかからないのに、飼い主に戻すとすぐ元通りになってしまうとは、この頃の人間と全く同じだ。私もそんな経験をたくさんしてきた。人間の場合は、親を教育し直すのは、ほとんど不可能に近い。だから神様は、そんな親が本当に反省してくれないかと、その子どもをどんどん駄目にする。とことん困り果てて、初めて反省するようになる親の場合はいいが、そうでない親はどうしたらいいのか?
子どもが本当にかわいそうだ。子どもは落ちるところまで落ちて、自力ではい上がってくるより、しょうがないのだろうか。
【札幌タイムス2003年12月3日(木)(2日発行)から、許可を得て転載】





