社会に貢献する素晴らしい人間作りに協力します。|池上公介の教育論|2003年度札幌タイムス掲載(全記事掲載中)

【第45回】
韓国の朝。25年前…忘れられない崔明君くん一家との交流

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私が札幌青年会議所に入っていた時のことだから、今からもう25年以上も前になる。札幌青年会議所と韓国の東大邱青年会議所とが姉妹JCになることになり、その前に東大邱JCを知っておく必要があった。英語と韓国語が話せるというので、その調整を命じられ、私は初めて韓国に飛んだ。

大邱市で出会った韓国の青年リーダーたちには圧倒された。と言うより感動させられたと言った方がいいだろう。「韓国という国を自分たちで築き上げるのだ」という彼らの強い意識とエネルギーは、かつての日本の明治期の若者たちの意欲も、きっとこんなのであったろうと私に思わせた。とても今の日本では探すことは不可能だろう。

大邱は韓国第3の都市だが、あの頃はまだビルは4・5階建ての百貨店とホテルくらいが目立つ程度で、偉大なる田舎という印象が強かった。連日、公式な会議や訪問などのスケジュールをこなして、首都ソウルに入った。ホテルで朝早く目がさめ、外を見ると、ちょうど、朝日が昇るところだった。霧もやがかかったソウルの古い瓦屋根の家並みのはるか遠くが、少しずつ明るくなって来た。ああー、朝の鮮やかな国とはこのことだ。その美しさに、しばし見とれていた。ソウルの朝は感動だった。今も鮮明に覚えている。

ホテルで軽い朝食を済ませて、私はソウルの街を歩いてみた。出勤ラッシュの時間だった。沢山の人たちが急ぎ早足で行き過ぎていく。全く東京のそれと少しも違わない感じで、少し私はがっかりしていたが、所々に昔ながらの韓国の家並みを見つけると、ああ、ソウルに来たんだなと、気分を取り直していた。

その後も度々韓国に行ったが、その度にソウルも大邱も発展していき、昔の建物が壊されて高いビルが乱立して、まるで東京か大阪のようになって、私には何の魅力もなくなっていった。

しばらく歩いているうちに、自分がどこにいるのか、分からなくなっているのに気が付いた。迷ってしまったのだ。だいたい私は方向音痴なので、ホテルに帰ろうにも、どの道に戻ればいいのか、さっぱり分からない。

仕方がないので、行きかう人に話しかけた。最初は英語で話しかけた。

「エクスキューズ・ミー」

「ノー・イングリッシュ」と断られてしまった。やはり韓国語のほうがいいのかなと思い、今度は韓国語で話しかけた。

「ヨボセヨ・チョソンホテルオデイムニカ?(すいません、チョソンホテルはどこでしょうか?)」

急いでいるのか愛想のない顔で「モルンゲヌンデヨ(わかりません)」とやられてしまった。3、4人に話しかけたが、みんな、さっさと通り過ぎてしまう。

私は心配になってきた。初めての異国で右も左も分からなくなってしまった。ああ、そうだ、韓国では中年以上の人たちは、日本語が分かるんだと思い付き、今度は中年の紳士に日本語で話しかけてみた。

「日本語分かりますか?」

無愛想な顔で「モルゲヌンデヨ」とやられてしまった。

しばらく、呆然として人の流れの中に突っ立つていた時、1人の大学生風の青年が、困った顔をしている私に気が付いて、どうかしましたかという顔をした。

「イルボンマル・ハルチュルアセヨ?(日本語が話せますか?)」と聞くと「モルゲヌンデヨ」

「ヨンオヌン?(英語は?)」と聞くと「A little(少し)」と答えてくれたので、英語でチョソンホテルはどこかと聞くと、自分もそっちのほうへ行くので、そこまで連れていってくれると言う。

崔明君くんとの出会いはこうして始まった。ホテルまでの道を色々と話しながら歩いた。彼が大学生で21歳であること、そして、すでに学生結婚をしていて、1歳の男の子がいることなどが分かった。

そうしているうちに、ホテルに着いた。わざわざホテルまで送ってくれたので、ホテルでコーヒーでも飲まないかと誘うと、彼は信じられないと、とても喜んで応じてくれた。彼はホテルなどには初めて入る、と大変に緊張していた。ホテルのロビーにある喫茶に入ると、ボーイたちが何かとても驚いている風だった。

そうか、韓国は日本の50年前のようなものなのだった。ホテルなど、普通の人にはとても入れない特別な場所だったのだ。私も東京での大学時代には、ホテルなどに普通の人は入れなかったものだ。

コーヒーを持ってきたボーイが、なんでお前なんかが、こんな所に来ているのかという目つきを投げかけた。

彼は「自分の家に来てみないか」と私を誘ってくれた。一般の家庭など、滅多に行けるものではない。私はぜひと頼んだ。夕方、彼がホテルまで迎えに来てくれた。「父は日本語を話せる」というのが彼の自慢だった。郊外の住宅街にたどり着いた。当時は街灯などほとんどなく、道は真っ暗だったことを思い出す。

その地域に日本人が足を入れたのは初めてとのことで、家の入り口にはたくさんの隣人が集まって、興味深そうに私を見つめた。

彼の家には、4世帯が住んでいた。1部屋に数人の1家族がそれぞれ住んでいた。朝鮮戦争の後、北から逃れてきた親戚だという。日本の戦後の一時期のようであった。居間がひとつあって、それがみんなの共通のロビーのようになっていて、全員がそこに集められた。25名くらいだったと思う。初めて日本人を招き入れて、みんなの目が私に集中した。彼のお父さんは、物静かな落ち着いた紳士だった。

「お待ちしておりました。ようこそ、いらっしゃいました」

30年以上も使っていなかったというが、完ぺきな日本語だった。みんなが、お父さんの日本語を聞いて驚きの声を発した。お父さんと私が話す日本語の会話を、お母さんがみんなに通訳をしていた。お母さんは日本語を聞く力は残っていたが、話すことはできなかった。

みんなが、初めて迎えた日本人に対してとても親しみを持ち、尊敬の気持ちさえ持っているのに、本当に驚いてしまった。

日本人に対して、憎しみや軽蔑の念を韓国の多くの人が持っているのでは、と考えていた私の既成概念は大きく覆されたのだ。

歴史や政治やイデオロギーを越えて、市民レベルでは、1人ひとりの人間としては、日本人も韓国人もないのだとつくづく感じた。親しい友人であることを再確認させられたのだ。民間外交のいかに大切であることか。

私はお宅におじゃましてごちそうになったお返しに、崔くんと奥さんをホテルの晩餐に招待した。21歳の大学生と20歳の奥さんが、赤ちゃんを連れてホテルにやってきた。中華料理をごちそうしたのだが、奥さんは隅のほうに赤ちゃんを抱いて座り、どの料理にも手をつけず、漬け物とご飯だけ食べていた。

実は当時、韓国では白米が食べられず、すべて麦ご飯だった。一流ホテルで外国人用には白米が出ていた。白米だけでも大変なごちそうだったのだろうか。私がどんなに勧めても絶対に手をつけないのだ。旦那のほうは私の前にドンと座り、私と会話をしながら「テダニ・マシイソヨ(とてもおいしいですね)」と言って黙々と食べるのだ。まるで、亭主関白の昔の日本のワンシーンのようであった。

私も実はほとんど料理に手をつけられなかった。というのは、韓国人好みに味付けされた中華料理で、どれも私の口には合わなかったのである。結局、相当の量の料理が残ってしまった。

私はホテルのボーイに頼んで、お持ち帰り用にパックしてもらった。きっと若い奥さんは家では安心して食べられたのではないか。でも、やはり家でも舅や姑に食べてもらって、自分はキムチで麦ご飯を食べていたのだろうか。

次の日、私は公共機関を利用してみようと、ソウル市内を走るバスに乗っていた。満員のバスに数人の日本人が乗り込んで来た。40代の男性ばかりで、大声で関西弁をまくし立てていた。その横柄な態度をまわりの韓国人たちは、誰もがいやな顔をして見ていた。私は恥ずかしくて、いたたまれなかった。なんということだろう。こんな日本人が彼らに悪感情を抱かせるのだろう。

何もへりくだる必要はない。しかし、アジアの国々で、いやに威張った横柄な態度を取っている日本人に出会うことが度々あった。1人ひとりの日本人の印象が、日本という国の印象になってしまうのだ。

崔明君くんにはあれ以来、連絡が取れない。どこかに移ってしまったのか、色々と人に頼んで探してもらったが、いまだに彼の居所が分からない。彼はすでに40代の半ばだろう。どうしているのだろうか。

【札幌タイムス2004年3月11日(木)(10日発行)から、許可を得て転載】

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